横網一丁目遺跡は、JR両国駅の北側にあり、隅田川左岸に隣接する。この付近は東京低地にあたり地史的には海域、干潟、および湿地的環境であったため生活には適しない地域であった。こうしたことから、この地区が整備されたのは明暦の大火以降に計画された江戸市中の拡張政策によるとされている(墨田区横川一丁目遺跡調査会,1999)。本遺跡の縄文時代晩期以降の堆積環境を復元することを目的に、各層の粒度分析、有機物量、イオウ含有量の調査を行った。各分析結果に基づき下位よりT,U,V,W,X,Y,Zの7つの堆積環境が復元される。
T期(F層):浅海の砂底(縄文晩期頃)
U期(Ec層):汽水域の潮間帯の干潟(縄文晩期末から弥生時代中期頃)
V期(Eb・Ea層):浅海の砂底
W期(D層):海〜汽水域の潮間帯の砂泥底
X期(Cb層):河川(6世紀中葉以降)
Y期(Ca層):後背湿地
Z期(B層):河 川
T期には遺跡周辺は浅海に位置し、カガミガイ、ハマグリ、およびムラサキガイなどが生息していた。この時期は暦年代からは縄文晩期頃と推定される。
U期には、海退に伴い汽水域の干潟が広がり、カキ礁が形成された。Ec層下部には中礫を含むことから、海退に伴い一時的に波浪などのより営力の高い環境があったとみられる。この時期は暦年代より縄文晩期末から弥生時代中期頃と推定され、いわゆる「弥生の小海退」(古川、1972;井関、1972)に対比さる。マガキは、カガミガイやハマグリなどの貝、および中礫上にいくつかの幼生が同時期に集合着生し、それらが成長して数個〜十数個の個体が互いに殻の基部を接着させた株状のコロニ−をつくり、この後に株をつくるカキを基盤として次世代以後のカキが着生していったとみられる。カキの幼生が着生する水深は潮間帯に限定されるため(鎮西、1982)、カキ礁の存在はそこが潮間帯であったことを示す。また、カキは殻の半分以上が埋まると死滅する(鎮西、1982)ことから、カキ礁の形成には、カキの成長速度、堆積速度及び堆積面が潮間帯にとどまっていることのバランスがとれて初めて大きなカキ礁が形成される。なお、カキ礁の成長速度は環境条件により著しく異なるが、天然の干潟において最大で1年に1p程度と考えられている(鎮西、1982)。本遺跡のカキ礁の形成期間は暦年代交点からは460年(1σ: 260〜580年、2σ: 120〜680年)であるが、カキ礁は厚いところで120pであるため、少なくとも120年以上である可能性は高い。
V期には海進に伴い再び浅海に変化したとみられる。カキ礁は、成長速度を上回る堆積物による埋積、および海水準の上昇により死滅した。堆積速度の変化は、すでにEc層の上部でも認められ、中・下部層より粗粒成分が多く堆積速度が速くなったとみられる。この地域における海進は暦年代によると弥生中から後期頃と推定される。
W期はC期と異なり営力の弱い穏やかな環境へと変化した。後述するようにC層より上位で淡水化すること、Da層で有機物量が比較的多いこと、水生植物の花粉を比較的多く産出することから海水準が低下し再び干潟のような環境に変化した可能性が考えられる。時期を特定する資料は得られていないが、Cb層の漂着軽石が榛名火山二ツ岳のFPの噴火による直接的ないし間接的(噴火後の泥流や土石流などの二次的な要因)に関係する場合は、W期は古墳時代以前に限定される。
X期の堆積層(Cb層)は、D・E層を浅谷して不整合に覆い、淡水性のCa層に整合に覆われること、斜交葉理が認められることから河成層とみられる。Cb層には漂着軽石が多量に含まれているが、これらは榛名二ツ岳伊香保(Hr-FP)起源の軽石と、浅間山起源と推定される軽石から構成されていることがわかっている。利根川流域の館林市茂林寺沼では白色軽石を多く混じえる砂が約2mと厚く堆積し、榛名火山二ツ岳の噴火との関係が示唆されている(辻ほか、1986)。Cb層の軽石はHr-FP起源の軽石を含むこと、層位的に矛盾しないことから茂林寺沼の砂層を形成した事件と関係している可能性が高い。なお、時期を特定する資料は得られていないが、茂林寺沼では軽石質の砂を含む堆積層の形成時期を7世紀初頭から9世紀(辻ほか、1986)と推定している。
Y期は、イオウ含有量が低いことから主に淡水性と考えられ、後背湿地のような営力の弱い穏やかな環境であったとみられる。但し、イオウ含有量が幾分高いことから、海水の遡上等の影響が僅かにあった可能性はある。Z期は再び河川環境に変化し、B層は安定した流水環境下で形成されたとみられる。なお、Y・Z期の形成時期を特定する資料は得られていない。
横網一丁目遺跡における古環境変遷 (吉川ほか,2002)