江東橋丁目遺跡Uにおける古環境変遷 (吉川,2002)
江東橋二丁目遺跡Uは、JR錦糸町駅の南西側にあり、隅田川の西方約2kmに位置する。本遺跡における堆積環境を復元することを目的に、各層の粒度分析、有機物量、イオウ含有量の調査を行った。各分析結果に基づき、下位よりT、U、V、W、X、Y、Zの7つ堆積環境が復元される。
T期(Ee・Ed層):浅海の砂泥底(縄文晩期頃)
U期(Ec層):汽水域の潮間帯の干潟(マガキ礁:弥生時代早期ないし前期〜中期頃)
V期(Eb層):浅海の砂泥底
W期(Ea層):汽水域の潮間帯の干潟(4世紀頃)
X期(C・D層):河口域(汽水)(7世紀頃以降)
Y期(B層):後背湿地
Z期(A層):盛土および水田(近世)
T期はイオウ含有量が高いことから海成ないし汽水成堆積物であることは明らかである。ここでは堆積環境を指示する資料は得られていないが、潮間帯にあったU期の堆積物より粗粒であることから浅海域と判断した。後述のようにU期のカキ礁の形成が弥生時代早期ないし前期から中期頃と推定され、いわゆる「弥生の小海退」(古川、1972;井関、1972)に対比さる変動と関係するとみられることから矛盾しない。
U期には海退に伴い潮間帯に変化し、カキ礁が形成された。カキの幼生が着生する水深は潮間帯に限定されるため(鎮西、1982)、カキ礁の存在はそこが潮間帯であったことを示す。カキ礁の形成は、Ec層上部のカキで暦年代でcal BC 100の年代が得られていることから、弥生中期頃と推定される。カキ礁は厚いところで29cmに達している。カキ礁の形成は環境条件により著しく異なり天然の干潟において最大で1年に1p程度と考えられている(鎮西、1982)が、横網一丁目遺跡(吉川ほか、2002)におけるカキ礁の成長速度は1年に0.26cmと算定される。仮に横網一丁目遺跡の成長速度に基づけば、U期のカキ礁の形成期間は約100年と見積もられる。一方、横網一丁目遺跡におけるカキ礁下部の年代がcal BC 330であること、本遺跡のカキ礁下限の標高が相対的に低いことから、カキ礁の形成開始期は横網一丁目遺跡より幾分遅れたと推定される。
V期もT期と同様にイオウ含有量が高いことから海成ないし汽水成堆積物であることは明らかである。ここでは環境を指示する資料は得られていないが、カキ礁が形成されていないことから2つの可能性が指摘できる。1つは堆積速度が速くなりカキの成長速度を上まった可能性、もう1つはカキの生息環境である潮間帯でなくなった可能性である。粒度組成はU期と類似し堆積速度に目立った変化は認められないこと、横網一丁目遺跡に比べ相対的に標高が低いことから、水深が増し浅海域に変化したとみた方が妥当であろう。Ec層上部のカキの年代によると、弥生時代中期頃には浅海化したとみられる。
W期には海退し再び汽水域の干潟が形成されたと推定される。Ea層には多量のカキが含まれるが、U期と異なり主として破片からなる。株状のカキもみられないことから、これらカキは異地性である可能性が考えられる。ただし、殻が摩滅されていないことから周囲にカキ礁があったと推定される。一次調査(雇用促進事業団・墨田区江東橋二丁目遺跡調査団,1997)のカキの年代(補正14C年代で2020±70yBP;暦年代でcal AD 380)からは4世紀頃と推定される。
X期には河口域の汽水環境に変化した。初期には流れのある環境が形成されヤマトシジミが生育していたが、それ以降では流れの緩やかな環境に変化した。初期のDb層堆積期には、江東橋ニ丁目遺跡の縄文晩期以降において最も営力の高い環境にあったが、それほど強い流れであったわけではない。ヤマトシジミは塩分濃度5パーミルで水の動きが良く、攪拌されて酸素がたくさんある砂底質に分布するため、堆積環境の穏やかなC層では分布出来なくなったと見られる。
Y期は、イオウ含有量が低いことから淡水性とみられ、流れの緩やかな河川、あるいは後背湿地のような営力の弱い穏やかな環境であったとみられる。近世(Z期)には、こうした後背湿地が主にシルト質粘土により埋土され、水田として利用された。